年齢の割に若く見える人の共通点は時間概念にある。

日記
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「年齢よりも若く見られたい」
年をとるにつれ誰もが持つ想いじゃないかなっておっさんになりつつある今思うんですけど実際に若く見える人っているじゃないですか。
そんな人たちに共通点を見出したかもしれないと思うので少し書いてみる。

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時間を考えさせられた1冊の本

そもそも若く見えるという事象を考えさせられるキッカケになったのがこのモモという本でした。

モモ (岩波少年文庫(127))

「時間」というテーマを通じて読者自身の「何のため?」を問いかけてくる児童文学にも関わらず風刺のガッツリ効いた、やたら深い物語。
冒頭部分を少しだけ紹介しますね。

モモという浮浪児の女の子がいた。当然何も持っていない。
どこから来たのかもよくわからない。
ただ、彼女には人の話を聞く力があった。
否定することなく、ただじっと聞いているだけ。にも関わらず、
人々は彼女にただ話をするだけで悩みの解決策を見出したり、
幸せな気持ちになれたりした。彼女の周りにはいつも人が集まった。

ある時、街に灰色の男たちがやってくる。
「時間貯蓄銀行」と名乗る彼らは
「時間という資本を節約しよう」と街の人々に声をかける。
言葉巧みにこれまでの人生においてどれほどの時間を
無駄にしてきたかをわかりやすく、それも合理的に話す。

話を持ちかけられた人々は自分の時間の使い方や
今までの生きた時間の総決算を数字で見せられ
そのあまりにも膨大な時間と、過ぎ去った過去を
「無駄な時間だった」と落胆。自分の未来を変えるために、
より良い暮らしを求めて時間節約を決意する。

そんな人々が増え、穏やかに、慎ましく過ごしていた人々の街が激変する。
どこにでも同じような高層マンションや新興住宅地が立ち並び、
忙しい両親が相手をしてくれないために子供達は居場所を失い、
近所の人たちが集う街の酒場はファーストフード店に。
人々は1秒でも時間を無駄にしないように働く。

未来のより良い暮らしのためのはずの時間はどこか遠くに行ってしまったようで、
誰しもが口にする「忙しい」と「時間がない」の言葉で街は溢れ、
子供は将来のためにと勉強をさせられ、イライラと口論が日常になった世界。
灰色の男たちの目的と正体に唯一気づくことができたモモは
それを食い止めるために、友達を助けるために行動を起こす。

読み終わった後に
「時間とは何か」
というこの、もはや哲学とも言うべき問いの答えを探し続けることとなり「やられた」という想いを持ちながらも行くところまで行くしかない、と心に火がついた。

時間とは何か

作中とある場所で出会う、時間を司る神様がこんなことを言います。

p236.「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じ取るために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。」

この
「時間を感じとるために心がある」とはどういうことかなと。そのあとに続く
「心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ」ということについても何か違和感がある。時間を感じることが何よりの目的、のような言い回しに。

時間を感じとるとき、とはどういうときだろう。時計の進みが早いとき?それとも遅いとき?

「時計はきわめて不完全」と神様が、それも、時間の神様が言うんだからこの場合の時間は時計が指す時刻ではないと思われる。

ならなんだろう。
モモは言うわけです。

p234.「時間て、ちっともとまってないで、動いていく。すると、どこからかやってくるものにちがいない。そうだ!わかった!一種の音楽なのよ-いつでもひびいているから、人間がとりたてて聞きもしない音楽。でもあたしは、ときどき聞いていたような気がする、とってもしずかな音楽よ」

これに対し神様は

「わたしにはそれがわかっていたよ。だからお前をここに呼んだんだ」

かなり肯定的。
時間は音楽のようなもの?流れ?流れだな?流れを考えろ、と。
そしてそれらを感じられない時?

例えば。川?流れの早い箇所、遅い箇所、クリアーな場所、濁っている場所、生命感のある場所。
川の水をすくってみる、どの場所であっても手のひらに乗ったそれは水で、また川に戻してもそれは同じ。どの一箇所を切り取っても
(差こそあれ)物体そのものは変わらないが全体として見た時に初めて「流れ」ということ?

(べべべ別にバガボンド見てるわけじゃないからね!)

ホピ族のはなし

常識で考える所とは全く別の所で時間の概念を考えねばならない。ここで以前読んだ知識を思い出した。
ホピ族というアメリカのインディアンの話。
彼らはマヤ文明の末裔とされ、様々な予言を残していることで有名だ。
(オカルト大好きな僕は予言に関しても書きたいことはたくさん在るけれど収拾がつかなくなる可能性100%なので割愛。各自でググっておくれ)
興味深いのは彼らには過去、現在、未来という概念がなく
「開示するもの」「開示されたもの」という2つの概念だけらしい。詳細について書かれたサイトがたくさんあるがその中でも

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/mori/entrance/ikeda/index.htm
の最後にある

つまり彼らにとって、世界とはすでに時間を超越して「在る」もの、たとえていえばすでに「書かれてある本」のようなものなのかもしれない。世界はすでに開かれて読まれた頁とこれから開かれて読まれる頁の二種類にわかれるが、本そのものはすでにあるのである。

これがとてもしっくりきた。
麻雀に似ている。麻雀はしない人からすればあまり良い印象を持たれていないかもしれないが本当に完成されていると常々思う。
牌の並び自体は場に積まれた時点から決まっていて、ルールとしてそれ自体を変えることはできない。で、そこから選択を繰り返す。
何を手に入れて何を捨てたか、何を待っているのか。変化か、我慢か。攻めるのは今か。次か。人の牌を鳴けば選択はズレる。即ち結果が変わる。
上がるかどうかは紙一重の差な確率論だが人の心理が加わる以上確率はいくらだって変えられる。その確率がどれだけ少なかろうと引く時は引く。麻雀ができる人はいつもこんなことを言う
「牌の流れを読むんだよ」
相変わらずよくわかりません。ただ人生の縮図みたいなゲームかもしれないとはよく思います。
起こる出来事は恐らく起こるようにできている。起こった時にどんな選択をするかを見られているんだ。
誰に?
それはもう
時間の神様に。

年齢の割に若く見える人の正体

この物語を読む中で
時間には種類があるっぽい。
自分の中を流れる時間と、それ以外全ての自分の外側にある時間と。
これらは全く別物っぽい。

という考えにたどり着いた。

p352.「ふつうの場所では時間はお前の中に入っていく。それでおまえのなかには時間がどんどんたまってゆき、そのためにおまえは年をとってゆく。けれども〈さかさま小路〉では、時間はおまえのなかから出ていってしまうのだ。」

神様が言うような「時間を自分の中に蓄積する」という考えを持ったことはなかった。
時間は経験を通して記憶として細胞に刻まれる。

1日があっという間だった経験、まだ5分しか経ってない経験。
最高だと思った経験、死ぬかもと思った経験。

経験の蓄積は時間の蓄積と言ってもいいかもしれない。
一方で時計が刻む時刻や暦、日付けというものは、
人との間で、共通認識を得るために流れの中のある一点を指せるようにしたもの。
であればそれが時間の全てではないとしても掴めない話ではない。アインシュタインが証明した。時間の進み方は観測者によって異なる、と。

自分の中を流れる時間と外側の時間、これらが別物であり、両者間に幾らかの誤差があるような場面が
生きている間におそらく相当数少なくない頻度で起きていてその外側の時間の「感じ方」がポイントっぽい。

というのも例えば何かものすごく集中して、熱中していてあっという間に時間が経っていた、という経験は誰しもにあると思うんですけど
この時に、神様の発言からして、もしかしたら

自分の中に時間がたまっていないんじゃないかな
って思ったんです。外側の時間と比較してたまる割合が少ない。それを言い換えるなら
「時刻と比例して相応に年を取らない」
それがもし自分の外側に現れてくるならば
それは年齢の割に老けて見える、若く見えるといった見た目年齢に現れる(のかもしれない)

それで、周りにいる若く見える人、老けて見える人たちを思い返してみる。
何かに夢中な人は、若い。と、いうよりは少年、少女のような側面がある。好奇心、素直さ、素朴さ、夢を追いかける。変わらない何か、を持っているように思う。
変わらない何か、が変わっていないのはいつからだろう。

それを初めて持ち得た時。そう。
年齢の割に老けている人はどうだろう。年齢の割に落ち着いている人、もどうだろう。
それらが「良いこと」だとは思わない。事象に対して良し悪しを決めるのは観測者であり、事象自体に色はない。

時間の正体

時計を見ずに1日を終える日のない日常を当たり前に送る中で
外側の時間(自分以外の人間との関わり、仕事環境や仲間の存在など)を切り離すことはできない。
その外側の時間が、今は道徳的観点から見た場合に悪い方向に流れてしまっているからモモはここまでヒットしたのかもしれない。ならそれは贈り物以外のなにものでもないなぁ。

企業というものの存続を考えた時に、いかに無駄なく合理的にこなすか。
利益の最大化、生産性の向上、そのためのあらゆる時間管理。当たり前に大切です。ないと困ります。
しかしその運営や環境に身を置くことで「見返りを求める思考」はその生活が長くなればなるほどに無意識のうちに強まっていく。
それが自分、というレベルにすらなり得る。それにふと気づくことがある。飲まれている。

対価を前提とした行動と思考についてまわる、疑惑、不信感、責任の所在、必要悪と言えるような犠牲などそういったものを誰にも止める義務はない。
仮に良心を持って誰かが止めたらきっとその誰かは損をして、得られた得には本人以外(もしくは本人ですら)誰ひとりとして気づかないし
誰も認めてくれないかもしれない。だから行動に移す前にきっとこう思う

「そんなことをして何の得がある?」と。
モモは肯定も否定もせず、具体的なアドバイスをするでもなくただ最後まで話を聞いているだけ。にもかかわらずモモに話を聞いてもらった相談者が
自分を取り戻すことができるのはなぜ?相談者が求めているものとモモが与えたものはなんだろう。

この問いの答えがおそらく時間の正体だと思う。
この本が1973年発行であることからも文明は繁栄と衰退と、たぶん昔からずっと繰り返されていて、いつ人間が答えを出すか、
集合体としての意思を問われているんじゃないかって思います。

時間だけはある生活を送っている今、
この物語に会えたことには何か意味があるのだろう。

個人的には最後まで読んだ後のこの物語が完成した理由を綴った作者あとがきが一番好きでした。
(ネタバレはしません!)

モモ (岩波少年文庫(127))

Thanks let me know this book my Momo,You’re awesome.
 

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